小説『幻覚寺』

 

 大学一年生の夏休みは、思っていたよりもずっと退屈だった。数少ない友人はみんな地元に帰省していて会えないし、夏休みは必ず会おうね、と春に約束した彼女にはふられてしまった。大きな集団に所属することがとても苦手なぼくは大学のサークルや部活に入っていないし、働くことも苦手なのでアルバイトすらしていない。こうなれば当然、夏休みの間は人と会う機会がほとんどなくなる。ひとりで過ごすのが好きな性格のぼくでも、さすがに孤独に飽きはじめたころだった。そろそろ誰かと会話をしたい。くだらないことでいいから。そんなことを思いながらそうめんを茹でていたら、スマートフォンから着信音が鳴った。ぼくはとても驚いて、菜箸を床に落としてしまった。

 電話をかけてきたのは数少ない友人のうちのひとりだった。彼と話すのは数ヶ月ぶりだった。彼とは同じ地域に住んでいるが、違う大学に通っているせいもあってか、普段はあまり付き合いがないのだ。ぼくたちは互いに近況報告をする。ぼくはそうめんをすすりながら、遠距離恋愛が終わった話をした。彼はアルバイトが忙しいので帰省を取り止めてずっとこちらに残っているという話をしてくれた。

 どんなアルバイトをしているのか問うと、ゲンカクジの売店でソフトクリームを売ってるんだ、と彼は答えた。ゲンカクジ。そんなお寺もあるのか、とぼくは思った。売店が存在するということは、それなりに観光客の訪れる場所なのだろう。ぼくたちの住む地域には本当にたくさんのお寺や神社があるが、ここに住み始めて半年のぼくはそれらについてあまり詳しくなかった。

 ゲンカクジソフトクリームを奢ってやるから暇なときにでも遊びに来いよ、と電話の向こうの彼は続けた。とにかく暇をもてあましているぼくは即答する。

「明日行くよ」

 


 友人によると、お寺は山の奥にあるらしい。ぼくの最寄り駅から電車を乗り継いで四十分ほどで、お寺があるという山のふもとの駅に着いた。この駅で降車したのはぼくだけだった。事前に指示されていた通り、ぼくは彼に連絡を入れた。すぐに彼からのメッセージが届く。「自販機の前でちょっと待ってて」という彼の言葉にしたがって、ぼくは駅前の道端に設置された自動販売機の前に立ち、なにかを待機することにした。なんとなくあたりを見回してみたが、駅前の道を人間や車が通る気配はなかった。特にすることもないので、目の前にそびえる山をぼんやりと眺めていたら、どこからか車のエンジン音らしきものが聞こえはじめたことに気づいた。かすかな音は次第にはっきりとしたものに変わっていき、道の向こうから白っぽい車が近づいてくるのが見えはじめた。どんどん大きくなる車を見つめていると、コートのポケットの中でスマートフォンが一回震えた。「そろそろ着くと思うから乗って」という彼からのメッセージをぼくが確認したのと同時に、目の前に白いバンが止まる。ぼくはすこし警戒しながら後部座席のドアを開けた。運転席に座っていた男が、どうぞ、と柔らかな口調でぼくに告げる。失礼します、と言いながらぼくは車に乗り込んだ。

 

 車はすぐ山道に入り、それから十分も経たないうちに止まった。車を降りたぼくの視界に飛び込んできたのは、大きな門だった。よくあるお寺の門という感じだ。門には「幻覚寺」と書かれた札が掲げられていて、ぼくは初めて「ゲンカクジ」が「幻覚寺」であることを知った。

 門を抜けて中に入り、すこし歩くと大きな池があった。池の周りには手入れされた松らしき木が植えられている。そしてその中央にはとても立派なお寺が——ない。ぼくは周囲を見回したが、お寺らしき建造物はいっさい見当たらなかった。建物といえば、池の横に木造の小屋のようなものがあるだけだった。その小屋の傍には「ソフトクリーム」と書かれたのぼりが立てられていたから、おそらくあれは売店なのだろう。お寺ではない。ぼくは戸惑いながら、とりあえずその小屋に近づいた。

「よう」

 小屋の中から、見知った顔の人物が出てくる。友人だ。よく来たな、と笑いながら友人はぼくの肩を叩いた。

「お寺はどこにあるんだ」

 ぼくは挨拶もそこそこに、彼に訊いた。まあまあ、と彼はぼくをなだめるように言いながらぼくを小屋の中に連れ込む。中はいたって普通の売店だった。彼はひとりで小さなカウンターの奥に入っていくと、黒い機械を操作してソフトクリームを巻きはじめる。すぐにソフトクリームの乗ったコーンが手渡され、ぼくは困惑しながらも礼を言った。

「幻覚寺ソフトクリームは池の前で食べるのがいちばんうまいんだ」

 彼はそう言いながら、ぼくの背を押した。ぼくはいまいち納得できないような気持ちを抱えながら、池の正面へと向かった。

 

 どこから見ても普通のソフトクリームに、口をつける。味もよくあるミルクのものと同じだ。まずくはないが、特においしいわけでもない。ぼくはソフトクリームを何口か食べてから、なんとなく景色に目をやった。大きな池、豊かな松の緑、そしてその中央にあるはずのお寺。普通ならそこにはお寺があるはずで、実際にはなにもなかった。はずだった。

 いつのまにか、大きなお寺が現れている。あろうことか、お寺は派手な虹色に光っていた。信じられない。ぼくは何度も瞬きをしたり目を擦ったりしてみたが、お寺はカラフルなままだった。しばらく呆然としていると、手元にひやりとした感覚があった。ソフトクリームが溶けて指まで伝っていたのだ。ぼくは慌ててソフトクリームを食べすすめる。ソフトクリームの味は変わらないが、ぼくがソフトクリームを食べれば食べるほどにお寺は輝きを増していった。それだけではなく、お寺はぐにゃりと歪みだして不規則に回転したり波打ったりするようになった。いつのまにか周りの松の木や池の水面、高い空までもが虹色になってぐるぐると自由に動いている。ぼくはなんだかひどく愉快な気分になってきて、笑い声を上げた。ぼくはいま、とても幸福だ。そうやって楽しくソフトクリームを食べていると、突然、ここにあるすべての存在との一体感のようなものが胸に湧き上がってきたので、ぼくは笑いながらも涙を流した。

 しばらく虹色の世界で踊っていると、ぼくの前にひとりの女が現れた。見間違えようもない。ぼくがとても愛していた彼女だった。ぼくに会いに来てくれたのだ、とぼくは確信した。ぼくにとって、すでにふられていることなどは瑣末な問題だった。だって、いま、彼女はぼくの目の前にいるのだから。ぼくは彼女に向かって大きく手を振った。彼女の反応はない。ぼくが首を傾げながらもう一度手を振ると、すっと彼女の横にひとりの男が現れた。ぼくの知らない人間だ。彼女とその男はぼくの前で抱き合うと、顔を寄せ合った。ぼくは思わず間に割って入ろうとしたが、なぜか足が動かなかった。自分のこめかみにだらだらと汗が伝っていくのがわかる。ふたりがゆっくりと互いの唇を重ねようとする姿を見ていられず、ぼくはぎゅっと瞳を閉じた。

 それからぼくがおそるおそる目を開けると、そこにはなにもなかった。

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